Welcome to my blog

混乱の戦国時代から、260年も続く泰平の江戸時代へと奇跡の転換を実現した
日本が誇る偉人・徳川家康公の素晴しさを皆もっと称えるべき!
・・・と言う事で、ブログを開設しました
主に家康公語り、縁の地めぐり、イラストetc。

暁の空

--
--  --:--:--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

 スポンサー広告

25
2017  19:00:00

徳川家康公誕生の地、岡崎旅行【その4・桶狭間合戦&伊賀八幡宮と矢作川と鹿さん】

さてさて、岡崎旅行のメイン大樹寺へ・・・行く前に桶狭間合戦当日の動きは、こんな感じに。
桶狭間合戦 ― 永禄3年5月19日(1560年)

桶狭間合戦図 
※松平元康=後の徳川家康
矢印アイコン 織田信長(26歳)|本陣・約2000【尾張:約57万石】
今川軍の侵攻を聞き何故か「敦盛」を舞う扇2アイコン。明け方、熱田神宮へ集結せよという命令だけを下し自身は先に向う。集結した手勢2000旗を引きつれ出撃。
矢印アイコン 今川義元(42歳)|本陣・約5000 【駿遠三:約70万石】
雲ぴよアイコン輿で進軍していた義元は自軍の幸先の良い戦況を聞き、昼ごろ桶狭間山で休憩した。天候悪化。激しい豪雨を避け義元は幕舎に入る。夜は大高城に泊まる予定であった。
矢印アイコン 松平元康(ピチピチの18歳)|軍勢/約1000  
前日の18日に奇計をもって無傷で大高城への兵糧入れに成功。19日は早朝から丸根砦を陥落した。この働きにより義元から「本日の軍功抜群なり」と激賞され、大高城で鵜殿長照にかわり守備と休息の命を受けて休憩中。ねこ 吹き出し音符 
ここでは信長本陣・義元本陣・元康軍・朝比奈軍しか載せていませんが、他に織田軍は砦守備軍、今川はそれを攻める軍などが周辺各所で争っています。

顔2ビックリ ところで、今まで信長は今川が侵攻してきたので、やや捨て鉢に仕方なく応戦したと思っていたけれど、上の図で見るように今川方に寝返った大高城、鳴海城に対して織田は付城で包囲しているんですね。ということは義元が後詰めに来るのは想定内ですし、もしかして桶狭間って信長側からの誘いだし作戦・・・なんて事はないのでしょうか? 顔口笛 
もともと織田と今川は以前から三河の覇権を争っていて、信長の父・信秀も小豆坂の戦いで今川を追い返した実績があるので。全く勝機がないという程でもなかったのかも?
石高的にもそんなに絶望的な差ではないですし、
よく、桶狭間は今川2万5千対織田2千などと言われますが、それは今川の全軍数と、織田軍の中の信長率いる義元攻撃部隊だけを比較しているので、ちょっと義元様に不利な情報になってるんですよね。ぷんぷん顔 

また、義元様の誤解についてひとつ。義元様は太り過ぎで馬に乗れないから輿を使っていた。その為に織田軍から逃げられなかったと言う説がありますが、
当時は輿に乗れるのは足利将軍に許可された人のみだったので、義元様はそのステイタスを見せつける為に輿で進軍したのであって、馬には乗れるんですぅ。 馬アイコン  (家康様も何かとデブキャラにされるので他人事じゃないス。)

さて、信長は熱田神宮から善照寺砦・中島砦へと移動し、義元が桶狭間で休息している情報を得ると、すぐさま出撃した。
そんな中、民家アイコン尾張の領民・商人達は駿遠三の太守である今川義元が攻めてきたからには織田も終りではないか?と考え、暫定新領主の義元に酒や供物を献上していた。顔にやりキラキラ3

義元は元康らの幸先の良い働きに機嫌よく、本陣の兵たちに戦勝気分で杯アイコン酒を振る舞った。
そのような中、急な豪雨になり皆そこここで雨宿りをした。視界も悪く織田軍が間近に迫っても今川勢は気が付かない。
そもそも丸根砦と鷲頭砦が攻撃されれば。当然、信長はそれの後詰に行くだろうという考えもあった。

しかし、丸根と鷲頭を捨て本陣まで来た信長は雨が止むのを待って「かかれ!顔怒り2と号令をし、一気に攻撃に出た。今川方は当初300人ほどで義元を囲み強固に護衛していたが数度攻めかかられると次第にその数は減り、
やがて、ついに今川義元が討たれ、また主要な幹部も相次いで討たれると今川本隊は総崩れとなった。
そして「今川義元討たれる!顔魂抜けたの報が駆け巡ると尾張に進行していた今川諸将は遠江を目指して散り散りに撤退していった。

家康様アイコンは?・・・一方の元康は、18日、別動隊400人を囮として寺部城へ向かわせ、大高城を包囲する丸根・鷲頭の砦が援軍を送った所で、大高城に兵糧を入れるという奇計を成功させ、19日にはまだ夜が明けきらないうちに丸根砦を急襲し陥落した。
また本多忠勝・忠真、本多正信らが朝比奈勢と共に鷲頭砦も陥落し、義元はその戦いぶりを高く評価して、鵜殿長照に変って元康に大高城の守備を任せた。一角の武将として頭角を現していたことがわかる。

ところが、元康勢が大高城で休息している間に、義元が討たれてしまった。
大高城は桶狭間から徒歩で1時間ほどの近距離だが、織田領に深く入る地理的条件により「義元討死」の一報が元康に届いたのは夕刻になってからでだった。
織田勢の中に取り残されてしまった恰好である。

家臣は一刻も早く引き上げるよう進言したが、敵が相手をかく乱するために虚報を流すことはある事で、元康は「敵の罠にかかって城を捨てては恥」と、まずは慎重に情報を集める事にした。

その後、生母・於大の兄、水野信元からも岡崎に帰るよう密書を持った道案内の使者が来た。しかし伯父とはいえ水野は織田方であるため、元康は罠を危ぶんでいたが、鳥居忠吉の使者や、偵察から帰ってきた使者からも同様の知らせが入り、元康は決断する。
23時ごろ城にかがり火を焚き籠城すると見せかけ、静かに城を後にして松明もつけず、月アイコン 月明かりの道を撤退した。

・・・と、いうような桶狭間の戦いがありまして。やっと今回旅行の地、岡崎の話に戻ります。
前振り長かったー。顔2笑顔汗
ところで、家康様の叔父、水野氏は桶狭間時に何をしていたのか記録がなく織田方だったのか、今川に寝返っていたのか、於大に頼まれて叔父の温情で伝えたに過ぎないのか、ちょっと謎です。
松平元康、岡崎に帰還(永禄3年5月20日)を巡る旅。
元康一行は翌20日に岡崎にたどり着く。しかし松平の本拠地岡崎城は今川の代官が占領しているはずなので、元康は松平の菩提寺である大樹寺を頼る事にした。愛知県岡崎大樹寺
そんなわけで、家康様の足跡をたどる旅をしているミカ&タケオも朝一で大樹寺を目指す事にしました。時は2017年5月29日であります。家康様が帰還した日から457年目。

本当は尾張の大高城から大樹寺を目指したい所ですが、いかんせん足軽部隊なので、一泊した「スーパーホテル岡崎」からの出発です。ルートはこちら。

さてミカこと私が、大樹寺ルートの家康様ゆかりの地場所を確認。

えーと、途中にあるのは伊賀八幡宮でしょ、あ。なんか晴明神社晴明紋アイコンとかあるみたいだから関係ないケド一応行っておこうか。でメインの大樹寺行って、皆大好き八丁味噌見学して、家康様一行が渡った矢作川行って…、岡崎城に戻るって感じかな~

え・・・歩いて行くの?・・・バスあるよ? 顔頬染め

チョット何言ってるか分からない。
457年前に家康様一行が織田勢から逃げながらこの地を必死で駆け巡って、大樹寺に入ったのに、足軽の私たちがバスにのると・・・?顔イラ

・・・・・・・こくり。

こらっー。家康様一行が歩いた道のりなんて、 google 先生のオススメ最短ルートで見ても、大高城から大樹寺まで25.5km5時間18分もかかるんだからね!ぷんぷん顔

このホテルから大樹寺なんて3.6km、徒歩45分でつくんだから。バスなんてありえーん!やらまいか侍アイコン

という、民主的な議論のもと、徒歩で行くことに決定しました。
ちょっと寄り道・晴明神社

晴明神社家康様とは関係ないケドも、通り道に晴明神社があるようなので行ってみました。「本町晴明ストリート」と看板をかかげる商店街を歩いて行くと。
一瞬通り過ぎてから 呆顔 おぉっと・・ここか。というくらい小さい神社を発見。
ザックリした四角いコンクリの家に門だけ立派なものを付けた感じです。結構シュール。ふきだしアハハ 
平安時代に平安装束安倍晴明が諸国を巡っていた際、この地に滞在し神夢によって井戸を掘り当てた場所なのだとか。
伊賀八幡宮&矢作川伊賀八幡宮鳥居
 晴明神社からほぼ道なりに20分ほど歩くと見えてきたのは伊賀八幡宮の鳥居です。
伊賀八幡宮・由緒
文明2年(1470年)に松平4代目親忠公が氏神として、家運長久、子孫繁栄を祈願するめ、三重県の伊賀から三州額田郡井田村へ社を移したのがはじまりと言われる。元あった場所にちなんで伊賀八幡宮を呼ばれ、松平家・徳川家代々の祈願所となった。

家康公も尊敬の念きわめて厚く、出陣には必ず祈願し 手拍手キラ黄色 関ヶ原の戦や大阪の陣には神殿が鳴動し、鳥居が移動したりするなど不思議なことが起こった。顔ビックリ
小花赤 桶狭間の戦では、利なく軍を引かそうとしたとき矢作川に八幡宮の神使の鹿が現われて、家康公は無事に大樹寺に入る事が出来た。鹿
たびたび社殿の造営が行われ、現在の社殿の大部分は寛永13年、家光公の造営で家康公を祭った。
社殿は江戸初期の建築の代表で、江戸時代の神社配置形式をよく残している。
伊賀八幡宮2 鹿さん伝説かわいい・・・顔頬染め 

以前紹介した、岡崎の観光スポットで販売されている冊子も見てみると

~ 青年徳川家康 戦の現場に立つより ~

大樹寺本小 元康は矢作川の対岸に先祖の眠る大樹寺があるのに、おりからの雨で増水した川を渡れず立ち往生していた。

 すると何処からともなく鹿鹿鹿3頭の鹿が現われ、川を渡った。それを見て元康一行も鹿の渡った水かさの浅い場所を渡る事ができたのだそうです。

 そして、鹿たちはきっと伊賀八幡宮、八剱神社、長瀬八幡宮などから神が遣わしたのだろうと言い伝えられるようになったそうな。


と言う感じです。ふーむ。どんな川だろう?渡れるものなのかな?と思い、矢作川も見てまいりました。(ルート的には大樹寺と八丁味噌の後に行ったのですが)
矢作川2
どーん!↑こちらが矢作川です。
おお、広いけど浅い!
私の住み慣れた下総と江戸周辺は徳川幕府がめっちゃ治水工事したので、川というとビシッと整備して深いイメージですが、
この感じなら豪雨の後で水かさが増えていたとしても、鹿さんの案内でなんとか渡れそう。顔クスン はーと小さい


ちなみに川で思い出しましたが、テレビアイコン歴史番組「英雄たちの選択」で竹村公太郎さんが(元・国土交通官僚、日本水フォーラム事務局長、著書「日本史の謎は地形で解ける」)
「江戸の一番の特徴は富が拡大したということなんですね。今ある河川の99.9%は江戸時代に作られたもので、家康が関東平野を乾田化して有効な土地にしたというのが全国の大名たちにも波及していくんです。それまでは限られた富を奪い合うゼロサムゲームだったのですが江戸時代は農地が増える。
僕も彼が何を考えてあんなことを始めたのか分かりませんが(笑)結果論として家康は日本の富の拡大、国土の形成の最大の功労者キラブルーで、私たちは徳川時代の平和な250年間の国造りの上に立っているんです。と言うような事を仰っておりました。
いやー。素晴しいですねはーと赤 日本の父ですね 顔口笛 家康様が江戸を作ったあたりも今後、研究して行きたいものです。


・・・脱線しましたが、矢作川は昔を思い起こせるような風情があり、鹿さんと家康様一行が渡った当時が目に浮かぶようです。

で、伊賀八幡宮に目を向けると、随神門正面の彫刻に家康様の干支の虎、家光の龍、のとなりにバンビが、これって家康様を助けた鹿だよね。?!(例によって肝心の鹿の写真がボケボケですけども。)と思ったのですが・・・
IMG_1213.jpg 
門全体の装飾を調べてみると
【正 面】…犀・龍・虎 【 裏 】…兎・獅子・猿
【 右 】…鹿・鹿   【 左 】…リス・リス
なのだそうです。
んっ?正面の鹿っぽいのは犀(サイ)??

確かによく見ると霊獣、犀にある甲羅がついてますが、右側面の同じような動物は鹿なのにー。茶色の体に白い斑点も一緒。どうみてもバンビに見える。
・・・思うにですね、矢作川の鹿伝説にちなんで犀だけど鹿っぽくしちゃったんじゃないでしょうか。顔2笑顔
伝説の鹿も3頭ですし、たぶん当時の人達も、

「鹿2頭 鹿鹿 ってハンパじゃない?」
「っすねー。やっぱ3頭 鹿鹿鹿 欲しいっすよね」
「・・・これ、犀って鹿っぽくね?顔にやり
「ぽいスねー、もうチョイ鹿っぽくしちゃいます?星キラ

的なノリがあったと思います。(いや個人的な妄想ですが、たぶん)しかし右側の鹿の彫刻を撮っていないのでブログで伝わってる気がしませんが。顔2汗
伊賀八幡宮に行ったら確かめてみて下さいませ。

伊賀八幡宮へは、 名鉄「東岡崎駅」よりバスアイコン名鉄バス奥陣屋行き他「八幡社前」下車、徒歩3分< でも行けるようなので是非どうぞ。7月は蓮の花が見頃だとか。

石鳥居をくぐると、見えるものの殆どが重要文化財というだけあって急に古めかしく厳かな趣になります。
でも、朝早く着いたのですが、子供たちが蓮池の生き物を取ろうと奮戦していたり、石鳥居の手前を通りかかった女性がペコリとお辞儀をしてから通り過ぎるなど、地元に馴染み親しまれてもいるようです。顔2笑顔はーと小赤

伊賀八幡宮スナップ
八幡宮
いやいや、家康様巡りの旅やっと伊賀八幡宮まできました。
次こそ大樹寺と八丁味噌カク久でお送りいたします。

スポンサーサイト

 歴史探索の旅

 桶狭間 松平元康 今川義元 織田信長 伊賀八幡宮 矢作川 晴明神社

- 0 Comments

コメントの投稿

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。