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混乱の戦国時代から、260年も続く泰平の江戸時代へと奇跡の転換を実現した
日本が誇る偉人・徳川家康公の素晴しさを皆もっと称えるべき!
・・・と言う事で、ブログを開設しました
主に家康公語り、縁の地めぐり、イラストetc。

暁の空

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09
2018  00:00:00

徳川家康公誕生の地、岡崎旅行【その8・松平元康 岡崎城へ帰還】

【前回までの流れ】
織田パパ今川・織田の強国に挟まれた弱小国の松平家当主の広忠は天文16年(1547)嫡男の竹千代を今川の人質に出す事に決めた。しかし護送の途中で織田家にさらわれる。
天文18年(1549)父の広忠が死亡し、同年竹千代は織田家から奪還されるが、直後に今川家の人質となり駿府へ送られる。 
当主不在の岡崎城は今川家の代官に占領された。
竹千代は今川義元の下で元服し松平元信と改め、その後元康と改名し、永禄3年(1560)に至った。

その年の5月、元康は今川家の尾張侵攻に従軍し、先鋒として18日大高城への兵糧入れに成功し、翌19日の朝には丸根砦を陥落する活躍をみせたが、その日の午後に総大将の今川義元が桶狭間で討死にし、今川軍は敗走した。夕刻になって、その情報を受けた元康は深夜に大高城を脱出する。
出生地の岡崎城には今川の代官がいる為、元康は菩提寺の大樹寺に身を寄せたが、岡崎城にいる今川勢に動きがあるようだ。

やぁ、家康様生誕の地星キラ岡崎旅行は、岡崎城から始まり行きは伊賀八幡宮ー大樹寺と巡って、戻りの道で家康様も大好き八丁味噌のカク久で工場見学&腹ごしらえの後、桶狭間の退却時に鹿さんの案内で家康様一行が渡ったという矢作川も見てなるほど~浅め!と納得しつつ、ついに岡崎城に戻ってきたねー。

カク久から岡崎城までは徒歩10分ちょっとで近かったね。ちょうど松平勢も岡崎城付近に着いているようだよ。

どれどれ・・・?


岡崎城到着
捨て城
総勢2万5000の大軍勢で尾張に出兵した今川軍だが、その多くは今川家に吸収された付近の国人領主の連合であったため、義元の討死の報を知ると殆どの兵が踏みとどまる事なく、それぞれの領地や駿府へと我先に退却していた。

そんな今川軍をみて、自分達も一刻も早く退却したいと焦っていたのが、織田領に隣接する岡崎を統治していた今川の代官達だったが、松平勢が大樹寺に留まっているのを幸いに、城を開け放って岡崎城を後にした。

元康はその様子に「捨て城ならば拾おう手グー と宣言し、
天文16年8月2日に岡崎城を出てから、実に12年9カ月21日の人質生活を経て・・・ついに。吹き出し顔泣き
永禄3523
mario_mario20.gif 松平元康 岡崎城へ帰還!mario_kuribo3.gif スピード\帰るどー!/  キラふきだし2 mario_mario02.gif pac_3.gif mario_mario02.gif
永禄三年5月松平元康帰還 
こうして松平元康は晴れて永禄3年5月23日、岡崎城の本丸にどっかと座った!
元康の帰還を待ち続けていた譜代の家臣たちは口々に
「目出度い事だ!」
「獅子猿のようなやつに腰を低くし、はいつくばい、ご機嫌を取る事も一度はここに主君をお入れしたい為だった(by三河物語)」と歓喜したのだった。


・・・とはいえ、後には鉄の結束と言われる松平党も、この時はまだ盤石ではない。

元康の祖父の代に遡れば、
松平家の7代目にあたり三河で隆盛を誇った実力者松平清康が若干24歳にして突然家臣に討たれると、その嫡男の広忠は叔父に追い落とされて伊勢に逃れることになった。

広忠は1年半後に今川の後ろ盾を得て三河に復帰したが、力の弱まった三河に尾張の織田信秀が進出し始めると、織田を阻止する為と称して今川軍も岡崎に駐在しほぼ植民地化される状況陥り、松平一族内は再び今川派と織田派に別れて対立した。

広忠は松平領国内の織田派を一掃してもらう為に再び今川を頼るが、その交換条件として嫡男の竹千代(元康)を人質に要求され、承諾することで今川家と事実上の主従関係となった。

松平宗家  7代・清康  8代・広忠  9代・元康(家康)

しかしその2年後に広忠は家臣に殺害された。
こうして当主を亡くし世継ぎの竹千代も人質に取られた岡崎は城の本丸までも今川家に占拠されることとなり、松平家は三河支配の終焉を迎えた一豪族だった。


だが、いつの日か当主が戻ることを願い堪えていた松平譜代家臣たちもいた。家臣たちは今川義元に元服した領主を返してくれるよう嘆願したが聞き届けられることなく桶狭間合戦の時を迎えた。


そうして今、義元の死によって今川家の人質であった松平党宗家の元康が岡崎の地に帰ってきたのだが、義元を失ったとはいえ、広大な領土を有する名門の大大名今川家と、
新勢力ながら織田信秀の時代に強力な経済システムを作り上げ、朝廷への多額の献金で冠位を得て、事実上の尾張大名となり、それを継いだ信長が率いる織田家に挟まれた小国であることには、変わりがなかった。
そして元康ら松平家と同様、三河には今川家の息がかかった豪族がひしめいている。

永禄3年三河勢力図 

松平元康と家臣たちは考えた。
戦国の領主は国の大小に関わらず四方八方が敵ではに領土を守り抜くことが困難であるため、利害の合う隣国と同盟を結んだり切れたりという事を頻繁にしていた。
大国に挟まれた小国である松平も織田か今川かどちらかを選ばない訳にはいかないだろう。

義元が亡くなった事で自動的に今川家の当主となった氏真からは駿府へ帰陣するよう命が下る。
しかし元康は「今は一刻も早く氏真が尾張に出馬して義元の仇討ちをすることこそ肝要です。その折は自分も出馬し信長を討ちとるつもりだ」と返答して岡崎に留まったという。
だが、氏真に父の仇討を敢行する器量はなかった。

氏真

その間に元康は帰陣後すばやくまとめた松平の兵を指揮し、織田家の属城である梅坪・挙母・沓掛・安城を攻撃し、広瀬城まで攻め入り落城させた。

この時より、後に250年の繁栄を誇る江戸時代を築きあげた
徳川家康の第一歩が始まったのであった!

いやー、ミカ&カケオもお城に戻ってきたよ!
485年前に松平党がこうやって大樹寺から岡崎城の道のりを辿ったのかと思うと感慨深いなぁ。
あれ?でも元康さん、信長の縄張り攻めはじめたよ?後々同盟組んでなかったけ?

ふむふむ、気になるね。今川・織田の大国に挟まれた松平党がどう処したのか、次回見てみよう。
・・・しかしコレ、ちょっと旅行記だか何だか分からなくなってきたね。

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 松平元康 岡崎 愛知県 徳川家康 桶狭間 織田信長 今川氏真

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